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ドアと生活空間   本質を暮らす贅沢な家より

ドアと生活空間 

寝室からクローゼットヘと眼をやる、まぶしい光がジャロジー窓からあふれている。一瞬半透明となった世界から現われたキラキラした光の粒、光の妖精がステップを踏んでいる。コンクリートの箱の中では味わえなかった、自然との朝の挨拶、1日の生活が始まる。

ベッドの中でしばらくゆったりと時をやり過ごす。それほど広くない寝室も、アルコーブ的に続くクローゼットそして書斎コーナーが視覚的ゆとりをつくっている。

寝室から書斎コーナーを横目に洗面へ・桧の床からタイルの床へ一歩また一歩、足元に伝わる異なる感触、だんだん頭が冴えてくる。

トイレ、洗顔、着替えと朝の身支度。ここまでの動線にドアは一つもない。洗面室の入り口に引戸が付いているけれど、いつも開け放し状態。お客様には個室のトイレが2階にあるが、たまたま1階のトイレを使う場合オープンではとの配慮である

1階間取り    2階間取り

マンション時代は寝室にドア、洗面室にもドア、トイレは廊下をへだててドアという生活だった。ずいぶんとシンプルになったものだ。

わが家の建具は、まず、玄関を仕切るための引戸がある。これは玄関ドアを開けた時の目隠しと思われがちであるが、実はわが家の特殊事情といえる。玄関から見て右手、階段前に寝室のドアがある。正面は水まわりと仕切るドア、このドアを開けると左手に地下へ行く折れ戸、水まわりの手前にもうひとつ引戸がある。

玄関を仕切る引き戸ただし引き戸は収納されていて見えない
玄関を仕切る引き戸ただし引き戸は収納されていて見えない

実は子どもたちのお留守番のために広めにつくった玄関、こことどこまでを子どもたちの領域としてつなげるかの試行錯誤の結果、複雑となっている。

洗面を済ませていざ2階へ。ドアを開けて階段下、子どもたちと毎日欠かさず行われる朝の挨拶、尾をふってそそと近づくという上品な子どもたちではない。激しいスキンシップの後、子どもたちと伴に2階へ上がる。リビングの様子を一望するや前夜の子どもたちの生活がうかがえる。この毎日何が起こっているかわからない状態が怖い瞬間であり、結構新鮮にわくわくする時でもある。

スキンシップの際に子どもたちの表情から体調の良し悪しは想像がつく。そして2階の惨状を見てどの子がどれほどの悪さをしてたかがうかがえる。

一番下のカイが何しろ手の届く物は何でも床に落としておもちゃと化す。どれだけの被害にあったか知れない。

賢いというは親ばかなのだろうが目の前でくわえている物を「交換」と言うとすぐに離す。ただし交換条件はおやつということになる。近頃は「交換」というと揃ってやってきてお座りしておやつをねだる。う-ん、これはとうも共同戦線しているな。

何はともあれイタズラ盛りの子どもたちの行動を目で追いながらの慌ただしい時間。しばらくして子どもたちは釦分ほど散歩に出かける。その間に食事の準備。食事中もなかなか落ち着いてという訳にはいかない、しばらくの辛抱と、カイの成長を心待ちしている心境である。

今は、2階のワンルーム空間はドッグランと化している。

ドッグラン化した二階のわんルーム空間  シャレではない

そして2階のドアはトイレ一ヶ所のみである。ドアがないということはイコール間仕切り壁がほとんどないということに他ならない。決して広くはない約17坪の空間も壁がないから子どもたちが駆けまわれる、そしてゆったりと使える。もちろん自然とのふれあいも十分、風が吹抜け、太陽の温もりは隅々に行き渡る。

玄関を除いてドアの一つもない家、そんな家をと設計段階では検討もしたが、あらためてドアについていろいろ考えてみた。

ドアひとつない空間をつくるには、単純な真四角の箱ではなく、ちょっとしたコーナー空間やアルコーブ、家具などでの仕切り、死角となるような収納スペースと考えなくてはいけないことも多い。その上で生活者のセンスが問われることになるだろう。

困るとまではいかないけれど、トイレにドアはあった方がいいかも知れない。いまでもトイレのドアを開けるとカイが頭を突っ込んでひと騒動あるわが家では、なおさら。

二階のトイレドア 内部より見る
二階トイレのドア 内部より見る

ドアを考える時、引戸の存在を忘れてはならない。同じように個室空間をつくるための間仕切りである。ただし、ドアと引戸の決定的な違いは開口幅の可能性にある。

引戸は連続すればその枚数に応じての開口がとれる。ドアはせいぜい2枚まで。そうした障子や襖などの引戸は、開ければ空間と空間が大きくつながる、生活のつながりイコール家族のつながりにも通じていたのかも知れない。

その点ドアは神秘的だ。かつて日本の住まいにドアはなかった。玄関さえも引戸の家がほとんどだった。西洋からきたドアの存在が自然と家、そして家族と家族の間に壁をつくったといったら言い過ぎだろうか。

日本の住まいを大きく変えた要因の一つにドアの存在があると思う。壁に絵を掛ける文化と、襖絵を愉しむ文化の違い。外の光を軒の出や障子などで照度を調整し採り入れる文化と、人工的照明に重きをおいた文化。そして何より引戸の持つ自在性に、かつての日本人の良い意味での柔軟な姿勢がラップしてくる。

一休み

人生の大きな岐路にいくつか並んだドアが象徴として取り上げられる。一つのドアを選び進んだら、当然他のドアには入れない。入るとうしろでパタンと閉じる、後戻りはできない。重い雰囲気がドアにはある。

ドアと壁そこから中廊下ができ、これまた生活も自然の恵みも分断してしまうような現代の間取りがつくられてきた。妙に自立心が旺碓に見えた欧米の子どもたち、夫婦や親子の間でも確立されているかに見えるマナーやルール、それが家の中にあって完全な個室をつくり得るドアと鍵の存在へと日本人の目を向けさせた。そしてもっと根底にある西洋へのあこがれが、ここまでドアを日本の住まいに侵食させてきたのだと思う。その結果が現代主流のドアと中廊下で象徴される何LDKの間取りとなった。

畳でごろごろの生活、まあるいちゃぶ台をたくさんの家族が囲ってスペースを駆使しながら食事する風景から椅子式生活の整然さはやはり大きなカルチャーショックだったのだと思う。

私たちはこれまでアンチテーゼとして何LDKの問題点を指摘し結果としてドアのマイナス面を拡大し引戸の見直しを訴えてきた。しかし実際にはドアの良さもある。また、最近では引戸の良さを十分理解される方も多くなってきた。もはやドア対引戸といった対決姿勢ではなく、双方の良さをいかした空間づくりが自然であると思箔フ。

必然的に、何LDK対広がり空間という教条主義的考えも終わりに近づいているのだろう。自然の恵みと家族のふれあいをゆたかにする設計は、それを越えたところにある気がする。

そのささやかな提案の一つが尾山台の家。

また、尾山台の家では壁に絵を掛けたいと思い設計をした。そうなると小さい家では引戸は難しい、引き込みスペースになる壁には何も掛けられないし、何よりも壁に余白ができてこそ絵画も映える。

腕白盛りの犬の子どもたちとの共生で、思っていた以上に多くのドアや引戸をつくってしまったが、おかげでドアの存在を見直すチャンスとなった。子どもたちに感謝。

 ゆったり空間

若林礼子(2008.9故人となりました。)
本質を暮らす贅沢な家より

尾山台の家
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