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本音で生きる 本音でつくる家づくり

本音で生きる、本音でつくる家づくり 

中学に入って間もない頃だったと思う。「人間てみんな死んじゃうのに、どうして毎日一生懸命生きなくちゃいけないの?みんな死んじゃうんだよね」と本当に唐突に、側に居た姉にポッンと言ったことがあった。 

生まれた時から常にペットと暮らしている私には、小さい頃から、大切な存在の死をいくつか経験していた。そのせいか、今おばあちゃんが死んじゃったら寂しいし悲しいといった、今考えれば自分勝手な死への恐怖を持っていた。不思議と自分の死の恐怖は感じていなかった。 

ただどうして毎日一生懸命生きなくてはいけないのかといった言葉は、厳しいというよりは異常に規制の多い私立の学校で、勉強も嫌いだったし学校へ行きたくなかった時のこと。それでも随分朝早く母親に起こされ、毎日何気ない顔で学校に通っている自分が虚しく思えたのだと思う。
 

多分答えを期待していたわけでもないし、今考えればそれほど苦しんでいた訳でもなかった気がする。 

その時の困惑したような表情の姉の顔が今でも忘れられない。なぜだかわからないけれど聞いてはいけないことを口にしてしまったような何か気まずい雰囲気があった。そのせいか、以後その質問を繰り返すことは一度もなかった。 本音

今の時代に生まれていたら、私は不登校か、ぐれていたに違いない。

学校生活という逃げ場のない時間の中で、学校の方針、教師の生き方にことごとく反感を抱いて過ごしていた時代。その時の経験が、今の生き方に随分と影響している。 

すさんだ気持ちになったり、微慢になったり、自分の非力を感じ、妙に自信を失ったり、ただその中で多くの気づきを得たことも事実だった。 

反発のための反発、抵抗のための抵抗、単なる自己主張からは何も生まれないという教訓。 

そして自分の気持ちをごまかさない、思っていることをそのまま表現するということは自分自身の信念でも何でもなく、単なる感情であったということ。 

そして何に対しても「なぜ」、「どうして」、と瞬発的に反対していた習慣が、今は一つひとつのことに対し、いったん自分の頭で考えるという習慣につながっている。 

また反抗するにはエネルギーが要る。そして反抗すれば相手からも反動がかえってくる。そうしたこころの戦争を通じ、自分、そして相手のこころの微妙な変化を読み取ることを覚えていった。自分自身を見つめる、そして観察することの大切さを気づかせてくれるベースとなっているかも知れない。
 いずれにしても枠にはめられる生き方への抵抗は、おそらく中学そして高校時代の学校の教育体制の中から芽生えたものだと思う。

枠にはめられない生き方、ある意味では常識などにとらわれずにどう自分らしく生きていくかということ。
真面目
 今、家づくりの仕事をしている。建築の学校も出ていないし、設計の資格がある訳でもない。 

衣・食・住の、住の視点から、衣も食も、自然との関係、生きることの意味を自由な発想で考えることができる仕事。そして自分の毎日の生活そのものが、会社の家づくりの理念と結びついている。


今、自分で選んだ家づくりという仕事を通じて死ぬまで成長していきたいと思っている。何のために生きているのか、という答えが今の生き方の中に見い出された。この成長するよろこびを持ち続けていきたいと思っている。
 
多分、そのために今の毎日の悩みや悲しみ、そして苦しみが成長の機会として与えられているのだと思う。 

そしてそうした悩みや苦しみを乗り越える度に、人間の持つ欲や我が少しずつ薄らいでいくのではないだろうか。自己の我なり欲からこころが解き放たれるための教えが現世の役割であり、その一端は家庭にあるような気がする。 

生まれたばかりの子どもにとって、成長する糧はすべて家庭の中、そして両親との接触にある。その時に夫婦の関係がうまくいってなく、こころがぎすぎすしていたら、子どものこころに大きな傷をつくることになりかねない。

 お腹の中にいる時でさえ、赤ちゃんには母親の愛情や気持ちが感じられると言われる。夫婦がどう家庭を築いていくかの役割は大きい。
心

本音で生きていればぶつかるのはあたりまえで、どう乗り越えるかが、成長につながっていくのだと思う。自分の行動や考えが人間性を向上させる方向に向いているかどうか。

 

考えて見れば、人はみんな能力も違えば考え方も違う。理解できなくて当たり前、でも相性が合わない、あるいは好きだ嫌いだで判断するのでなく、努力しあうことで人間性が向上するのだと思う。

 

そのためにもこころを開いて、風通しのよい関係をつくっていきたい。

 

もちろん、こころの窓を開いたら、結果としてやっぱり私たち別れましょう、ということではない。

 

本音でぶつかれるということは、すでに一歩も二歩もお互いを尊重するこころのゆとりができている証拠。

 気持ち

寝室を別にする、お互いが自分たちの個室を持つということは、場合によっては必要だという意見や、本文で取り上げた夫婦別室の考えは、本音でぶつかって、お互いこころを開いた結果の話である。

 

もし仕事を持っている女性であれば、家の中に日常性を感じない空間というのが、寝室が一緒とか別という以前になおさら必要なのかも知れない。

 

女性は、朝起きてから夜寝るまでの毎日の家事を段取りよくこなすよう時間単位で行動をしている。頭を使っている。特に仕事を持っていれば、朝などは自分の支度をして出かけるまでにまさに分単位で家事を段取らなくてはならない。食事の支度、後片づけ、子どもを学校に出す、そして旦那の世話。親やペットの心配もあるかも知れない。

 

休みは休みで、普段できないところの掃除やら、片づけ、一週間分のまとめ買いが必要なものもある。

 

夜の時間は家事から開放される空間が欲しい。家事はきりのない世界、気になればあれもやっておこう、これもやっておこうということになる。 

そういういっさいが目に入らない空間、それは家族からも独りになれる空間ということになる。独りの空間で、仕事をしたいこともあれば、本を読みたいこともある。 

そういう生活がお互い納得してできる家づくりをするためにも、こころを開いて本音でぶつかっていかなくてはならないのだろう。 

そのためには、本音でぶつかってもケンカにならない、そんな成長した関係が前提として必要になる。家づくりは、その過程においても人間づくりとなる面白いイベントなのだと思う
1997年9月
若林礼子

「夫婦の生活実感でつくる家」の一文です。若林礼子は2008年9月に故人となりました。