HOME > book 本質を暮らす贅沢な家 > 本質を暮らす贅沢な家 あとがき


本質を暮らす贅沢な家 あとがき


自分の頭で考える、自分を見つめる、自分を知る 

家づくりは、「自分を見つめる」という習慣をつくる大きなきっかけになる。

何といっても大きなお金が動く、誰しも失敗はしたくないと思うのが自然だ。どうしたら失敗しないで済むか、それは家づくりそのものの勉強もあるが、同時にあるいはそれ以前に自分自身の勉強が必要となる。

家づくりにのめり込むほど、自分が見えなくなる人もいる。現実から離脱し幻想の世界へと足を踏み入れてしまう、そんな危険性から逃れる最良の方法が「自分を見つめる」にある。常に、自分自身を見つめていれば、たとえ幻想の世界に入ったとしてもそのこと自体を自分で理解している。自分で理解していればいつまでも幻想の世界に身を置いておく人はいない。自分が見えなくなっているからこそ、非現実世界の住人でいられるのだから。

自分に合った家づくりは、自分自身を見つめることからスタートする。それが習慣化し日常化していけば人生は限りなくゆたかになっていく。もちろん家づく

 家づくり 自分の頭で考えよう

21世紀に入って5年目、相変わらず地球上には戦争があり、お金中心の社会は簡単には変わりそうもないように見える。物から心へと価値観が大きくシフトしていく皿世紀と信じているが、果たして生きている間に実感できるほどの変化があり得るのか一抹の不安もあるが、世の中が根底から変化し、良質な心の時代へと向かうベクトルは確実なものであろう。

社会が変化する、それは自分の問題である。皆が変われば自分も変わるではなく、自分がかわればやがて周囲が変わってくると信じてきた半世紀である。

これまでも何度か書いてきたが、地球をきれいに健康にというエコロジーの究極の目的も個人にかかっている。個人が地球の健康を常に考えて生活しましょうという堅苦しいことではない。それぞれの個人が自分自身の健康をとことん考え、健康に悪いと思われることを止めるだけでいい。

たとえば食生活を考える。農薬や化学物質の添加物などが健康に悪いのは当たり前のことだ。そうした食品を食べなければいい、食べない人が増えれば企業や生産者はそうしたものをつくらなくなっていく、その結果、大地も自然に還り健康がよみがえっていくという単純な図式が成り立つ。個人が健康に向かって行動すれば、やがて大地が海が空気がきれいになり地球の健康は大きく回復していく。

自分自身の健康を真剣に考え、悪いと思われることはすぐに止めて、いいと思われることをすぐに実践していく。自分の健康、同時に、家族の健康、親しい愛すべき人の健康、友達の健康と少しだけ輪を広げ考え進めていくことはそんなに不自然なことではないし、大変なことでもない。こうして自分のまわりから少しずつ変化が起りやがて社会全体に伝わっていく。

家をつくる事は自分自身を見つめること

私たちは家づくりという仕事に社会変革の夢を託している。個人がまず変わる。それが大前提にあるが、人間がその生存を維持していくためには仕事が必要である。その仕事が、単にお金を稼ぐだけのものであるならば、社会清浄化のスピー私たちは家づくりという仕事に社会変革の夢を託している。個人がまず変わる、それが大前提にあるが、人間がその生存を維持していくためには仕事が必要である。その仕事が、単にお金を稼ぐだけのものであるならば、社会清浄化のスピードは極めて遅くなるし、個人の心も引き裂かれる。

農協に高く出荷するために農薬を使う、自分たち家族の食べるものは無農薬というこれまでも生産者が抱えていた板ばさみは、いまでも、多くの職業、仕事に通している。仕事のあり方が根底から変化し、もっと本質的に良質にならなけば、働く人の心は救えないし、健康の顔をした不健康の塊ともいえる商品はあとを絶たない。
 

「清く豊かに美しく」は私たちが仕事で実現していこうとする本質論である。書生論と一笑に付される方は、21世紀にはふさわしくない。

お金を儲けることに最重点を置くのは20世紀最悪の思考法だ。この仕事に裏表はないか、使う人、つくる人、売る人など関わる人すべてが心安らかにいられるか、個人の健康、結果として地球の健康に貢献しているのか、よりエコロジーで本質にかなったあり方が求められる。 

 家づくり  清く豊かに美しく

こんな当たり前のことがなかなか実現されない。その根底の原因は、個人が機能していないということだと思う。すなわち、個人が自分の頭で考えていないということに帰着する。

私たちのほとんどは、本当は自分自身で考えていないという事実すら気づいていない。逆に自分で考えていると錯覚している。

私たちの頭脳には実に多くのことが記憶されている。意識の表層だけではなく普段は思い出さない無意識という膨大なメモリーにも。その記憶された情報がなければ、実は思考するという脳の作業はないのであろう

私たちの記憶はこの世に生を受けた時から累積されていく。親との関係から始まり、兄弟姉妹の関係、やがて保育園や幼稚園、小学校、中学高校大学と進むうちに社会通念なるものが植えつけられていく。

社会通念は一世代で術築されたものではなく何代にも亘って積み上げられたものであるから、私たちは何百年何千年の累積したメモリーを持っているといえる。

同時に地域性や風土による通念、日本人であるという国籍の概念、宗教観などがいやでもかたちづくられていく。職場での常識も入り込み、さらには情報過多の現代社会ではマスコミやインターネットによる影響も大きい。

そうした膨大で無整理な情報の記憶がごちや混ぜとなり、いろいろなかたちで頭に浮かび私たち個人の考えをつくり出しているが、この思考そのものが本質的に自分自身のものなのか、過去の通念そのものなのかを判別するのは難しいし、また、そんなことを意識している個人は極めて少ない。

当り前の脱却

さらには社会通念に逆らったり職場の常識を守らなければ、周囲との摩擦も大きくなり極めて生きにくい、時には生命の存在すら危うい状況に追い込まれもする。実際にこの地球上にはそんな個人の考える自由など存在しえない国家すら未だに存在している。日本はそうした意味では極めて自由があふれた国のように見えるが実際はそうとは思えない。

自由の原点は「自分の頭で考える」ことにある。しかし、大部分の個人は、常識という社会通念に縛られ、家族や職場の規範や雰囲気を当たり前とし、テレビやマスコミの情報操作に乗り、自分の頭を本質的には使っていない、使えない状況にあるといえる。要は、自分が存在しない、佃が確立していない・自分の考えのように思っているが実はそれは社会や職業の通念の範囲にしかない。

「自分の頭で考える」という基本的なことができているかどうか、それは常に「自分を見つめる」という作業なくしては確認できない。

自分自身を見つめる家づくり

今、頭の中に浮かんでいる考えを見つめる、感情の状態を見つめる、そうした絶え間のない作業が日常化した時、始めて自分自身が単に頭脳に蓄積された情報に流されているだけなのか、本当に自分という存在があっての思考なのかの区別また、人間の頭脳はやっかいでもある。コンピューターならスイッチを入れ何がしの操作をしなければ静止したままだが、人間の頭脳はそうではない、常に何らかの考えや思いそして感情が浮かんだり消えたりしている、まるで壊れたコンピューターが勝手に作動しているのと変わらない。

とりとめのないことが常に頭の中を駆け巡っている。モンキーマインドといわれる所以だ。夢がその極端な状態であるが、困ったことに目覚めている時も実態はあまり変わらない、白昼夢のようでもある。しかし、現実には多くの個人が自分の脳のこうした状況にも気づいていない。そこに問題の根がある。 

しかし、不思議なことに、そうして勝手に動いている脳も見つめられていると静かになる。見つめることを止めると勝手に動き出す。その繰り返しのようだ。

静かになった頭脳でなければ、自分自身で考えることはできない。脳を静めるには「自分を見つめる」という日常の作業が必要となる。

すなわち、「自分の頭で考える」ことは「自分を見つめる」こととなる。日常の生活や仕事、人間関係の中で常に自分を見つめることがいかに重要なことかがここにある。
ロボット化しない生き方

ロボット化しないためにも、自分を意識して見つめ続けていくことが求められる。その究極が、「自分を知る」ということだ。それは意識だけではなく、無意識を含めて考えると、いかに大変な事かが分かる。

人間の心はミクロコスモス、小宇宙といわれる。実際の宇宙はマクロコスモスと呼ばれ、それは無限と同義語だと思うが、小宇宙も同じこと。私たちはそれぞれ無限の宇宙を内にかかえている訳だ。

このミクロコスモスを探検することが自分を見つめる」ことであり、ミクロコスモスを知っていくことが「自分を知る」こととなる。

人間成長の極致であろう、そこに至る最大のキーワードが「自分を見つめる」、毎日、毎時間、毎分、毎秒、見つめ続ける、この重要性に気づきほんの少しずつでも実践し続けていけば、自分の変化に気づく、ゆたかな自分の可能性に眼がひらかされる。

「家をつくる」それは自分を見つめる良いきっかけになる。そんな家づくりを仕事にしている幸せを噛みしめている。

2005年5月

田中慶明

本質を暮らす贅沢な家 田中慶明