「イマドキの二世帯住宅」全13

① 二世帯住宅の本音

② 人間を成長させると考えるしかないか

③ シェアハウスととらえると旨くいくかも

④ きれいごとにしてはいけない

⑤ 子供は独立するもの

⑥ あきらめれば受け入れられる楽しくなる

⑦ どちらの親でも

⑧ 甘えるとぼける

⑨ 個人の感覚がなくなるようでは

⑩ 決別もある

⑪ ここまでくれば悪くも無い

⑫ 一人で生きるという感覚も

⑬ たまに会う感じで

 

 

「イマドキの二世帯住宅」第1

二世帯住宅の本音

 

人は一人では生きられない。さりとて複数の人間が集まればそれなりに問題は生じる。ましてや二世帯住宅、大変な要素があるだろう。

当然、家族によって具体的な課題はいろいろあるだろうが、根本的な問題は、血のつながった家族と血のつながっていない家族がともに暮らすという所に根ざしている。

人間関係はつながりが濃いほど、分かりあえ楽しくもあるが、一方難しい要素も深く濃くなると思っている。

親子兄弟、夫婦、親戚、友人、地域関係、会社関係。もちろんお互いに必要な関係であり生きがいにもなるが、近いがゆえにマイナスの面も見え、時としてたまらなく耐えがたくなる事があるのも普通に体験していることであろう。

親子関係も様々だが二世帯住宅を建てともに暮らそうとするのだから関係は悪くはないのだろう。そうお互いに思うからこその二世帯住宅であろうが、実際に暮らしてからうまく行くかどうかはわからない。

二世帯住宅の生活が順調にいくかそれは最初のスタート時点の考え方、とらえ方がとても重要であり大きく影響するのではないかと思っている。

いい人のようだから何とかなるだろう、優しそうな人だからうまくいくだろうと安易に考えスタートしてしまうと後からの苦労が大きく困難なものになりかねない。

一方、人は見かけではわからない、生活をともにすれば違う面も出てくる、考え方や感じ方は当然違う、理解しあうまでかなり時間がかかるだろうとスタートできれば、わからない要素あるいは嫌な要素もある程度折込済みなので、冷静に受け止められ感情的にはならないで済むだろう。

こうできれば多くの問題は何とかなるのだろうが、しかし現実はそうはいかないかもしれない。

両親・夫婦の四人少なくとも嫁姑の二人がこうした考えを共有できれば問題は少ないだろうが、大概いずれかがこうした考え方を持ち得ないケースも多い。

こうした場合、一方が相当に大人というか感情的にならないで自分の気持ちをプラスに処理できる辛抱強さが求められる。

これは簡単にはできそうもない。

そうなれば決まりきった嫁姑問題など二世帯住宅にともなう多くのトラブルシャワーを浴びることになるだろう。

それはそれと割り切って進める、暮らしていく、そうしながら時間の経過とともにいい方向に導いていく根気強さが求められる。

根気強く辛抱強くしていく、その推進役・主役は誰?



「イマドキの二世帯住宅」第2

人間を成長させると考えるしかないか

 

人は自分が成長することを喜べる、そんな性質があるのだと思っている。

少しレベルの高い欲求かもしれないが、この感覚はとても重要だろう。生きていくのに、仕事で、趣味であるいはスポーツなどすべての面で自分が向上・上達するのに必要な原動力の一つであろう。

この性質を二世帯住宅での暮らしに役立てることができれば、それなりに、しかも楽しみながら二世帯の生活をすごしていくことができるかもしれない。

この場合の喜びは、人間関係対応能力の向上ということになるのだろう。

人間は日々変化している。特に気分や感情の動きは大きい。この動きに振り回されると人との関係はスムーズにいかなくなる。

自分の心の動きも大きいが相手の心の動きも当然大きい。その動きのサイクルがうまくかみ合ってマイナスを補うようにあるいはプラスを大きくするように働けばいい方向に流れ出すが、逆に足を引っ張り合うようだと辛い状況になる。

人間の関係が近くなる程、わかっているはずだと思いがちで感情のすれ違いになることも多い。そんな時、相手のせいだと責めたり、口には出さないまでも顔に出したりするのもよくあることだろう。

相手の心は理解しにくいし、直接変えることはできないが、自分の心を見つめることはできる。どんな感情を抱いているのか、何を感じているのか、いらいらしているのか、怒っているのか、我慢しているのか、まずは見つめる。

自分自身にちょっと辛抱が必要かもしれないが、自分の心を少しでも見つめる余裕ができると、それがきっかけになりいい方向に回っていくことが多い。そのプロセスは様々であろうが、どなたも経験していることだろう。

自分のほんの少しの余裕が相手の心にも余裕をもたらし、お互いのいい面が表に現れて回転がうまくいき始める、そんな経験は楽しいしうれしいことだ。苦労の末の喜びそんなニュアンスか。

心も怠け者だ、楽な方向に楽な方向に行こうとする。そして心は自己中心でもあるので、対人関係で不愉快なことがあると相手が悪いと思ってしまう。この心の動きは万人に共通だと思うので、あちこちで人間関係はギクシャクしてくる。

二世帯住宅はこのギクシャク関係の宝庫だ。多くの場合、普通に暮らしているだけで、不快感を覚えることは珍しくはないことだろう。

でもこの状況は人間成長の場としては最適だ。絶好のチャンスだ。これを自分の心を豊かにする有難い場ととらえることができれば、自分なりの方法論が生まれる。それに挑戦し続けていく喜びを自分のものにするのも一方法論か。



「イマドキの二世帯住宅」第3

シェアハウスととらえると旨くいくかも

 

最近話題になり始めたシェアハウスをご存知だろうか。

住み手のいなくなった住宅を賃貸住宅にする、その場合、一軒丸ごと貸すか、アパートに建て替えるなどがこれまでは一般的であったが、最近、利便性の高い所では改装してシェアハウスにするということも増えてきているようだ。

単純に言ってしまうと、玄関、キッチン、リビング、トイレ、洗面、浴室などは共用にして、一部屋だけを自分の居場所にするという賃貸方式だ。

大きさも様々だが、5人位から10人程度で共用するのが一般的な様で、女性専用、男女問わずとタイプもいくつかあるようだが、一人暮らしの他人が一つ屋根をともにするという暮らしだ。メリットは利便性がいい、家賃が安い、自由でありながら共同生活場面もある、最新の暮らし方式で面白そうなどいろいろとありそうだ。

シェアハウスを普及しようと頑張っている方から何回か話を聞いたが、シェアハウスの生活がうまくいくかどうかは、最初のルール付けにあるそうだ。

普通の賃貸住宅とは違って共有部分の共同利用の場面もあるので入居者任せにするのではなく、その生活のルール付けをするシェアハウス専任の管理人が定期的に回っていて、住人同士が混乱しないように、生活の流れが安定してくるようにコントロールしてくことが欠かせないことのようだ。

実際の細かいことはよくわからないが、この話を聞いていて二世帯住宅の暮らしがうまくいくヒントがここにありそうだと思った。二世帯住宅も玄関やキッチン・リビングなど共用にする場合も多い。これではうまくいかないと考えて、生活部分を完全に独立した二世帯住宅も多い。

二世帯住宅がうまくいくかどうか、家づくりの観点からみるとどうしても間取りの話になりがちだが、それ以上に重要な要素があるだろう。

当然、人の問題だ。心の問題だ。感情の問題だ。考え方の問題だ。そしてその対応の問題だ。

シェアハウスで考えると入居者一人ひとりが、そこでの暮らしのルールを身につける、それを助ける管理人がいる、そういう構図でバランスをとる努力をしているようだが、

この図式は二世帯住宅にも当てはまりそうだ。

シェアハウスは他人の集まりだが、二世帯住宅は家族である。それだけに難しい要素も多くなり感情的にもなる。それを理解した上で、その家の生活のルールあるいは触れてはいけない人間の尊厳などを守る努力を家族それぞれがする。

その上でシェアハウスにおける管理人がその家族に存在するかどうかが大きなテーマになるのかもしれない。同居していない家族でもその役割は果たしうるかもしれない。



「イマドキの二世帯住宅」第4

きれいごとにしてはいけない

 

二世帯住宅の暮らしのルール付け。結構きわどい問題を含んでいそうだが、長きに亘ってうまくやっていこうとするならば、きれいごとで逃げないほう方がいいだろう。

人によって受け止め方も様々で一概にこうだとは言えないことは十分承知しているが、ここは思いきって断言口調でいこうと思う。それは違う、我が家はそうではないと感じられる方もたくさんいらっしゃると思うので、その場合は一笑に付していただきたい。

二世帯住宅で暮らす第一条件は、家族なんだからと甘く考えないこと、なんとかなるさと軽く考えてスタートしないことだと思う。

親子関係、嫁姑関係は愛情が根底にあるのは当り前だが、それだけに他人の関係とは比べ物にならないくらい大変な要素を含んでいる。愛憎背反、愛しさ余って憎さ百倍、アンビバレンス、ヤマアラシのジレンマと昔からこうした人間関係の難しさをあらわした言葉は多い。

二世帯住宅の間取りや造り様がどうであれ、その暮らしはとても大変なことなんだと覚悟したほうがいい。そのほうが結果としてはうまくいく。

まぁ考えてみれば夫婦関係だってとても難しい。それに親や子供が絡んでくるのだから二世帯の暮らしが簡単でないのは当り前のことだろう。

愛情を持っての覚悟、覚悟があればイライラも少なくなる。

人は理解してもらいたい、わかって欲しいとの本能的なものがあるし、近しい関係であるほど、わかっているはずだとの思い込みもある。しかし現実はそうでもないことが多い。自分では言っているはずと思っていることが、実際には理解されていないことも相当にある。

日常的なことは聞き流してしまう、時としてそれがトラブルになる。気持ちにゆとりがないとそのトラブルが雪だるま式に大きくなっていき危機到来的になってしまう。心を落ち着かせるまでに大変な思いをしたなんて経験はどなたにもあるだろう。

こうしたことをなくすことができればいいのだろうが、なかなか難しい、できることではないと考えておいたほうがいい。

ではどうしたらいいか、あっ、又やってしまったと自分を見つめられればその後の経過はうまくいくことが多い。人は自分の心の動きを観察できている時は、感情に流されたままということはなさそうだ。どこかで冷静な自分を取り戻せる。

二世帯住宅のなかでの人間関係は、心の中を眺めればそんなことの連続かもしれない。言葉に出せば楽だが、今度はその言葉がより大きなトラブルを呼び、心はさらに痛む。こんな悪循環に陥ってしまったら抜け出すことはなかなか困難だ。大変な事をしているのだという覚悟が様々なマイナス感情を昇華させる原動力になるのかも知れない。



「イマドキの二世帯住宅」第5

子供は独立するもの

 

子供は成長したら親元から離れていく、これは生物としても当然のことだ。この単純なルールが最近は崩れてきている。

子供からみれば住居費の負担は大きい。親の家に住めれば楽になるという思いからの二世帯住宅。

親から見ると老後は寂しい・老後の面倒も見てもらいたいとの期待から。

また介護の必要性からやむなくという深刻な要素も増えている。ここでのテーマは介護取り上げていないので、前述の二つの観点から取り上げてみたい。

親が元気であるとの前提から考えれば、よほどのマザコン・ファザコンでもなければ、親とは別に暮らしたいと思うのが普通であろう。

住居費を倹約したいという理由だけで同居したならば、住んでからのトラブルは絶えないだろう。離れて暮らしていればいい親子関係が保てただろうに、一緒に暮らし顔を突き合わす機会が多くなったことで、不快な思いも多くなり、やがてトラブルも深刻になり修復が困難になることも現実に少なからず起こっている。

住居費を省くためだけということだけではなくそれ以外にも表向きの同居理由は付いているだろうが、メインがそういうことであれば、所詮は金目当てといっても過言ではないだろう。

金目当てであれば親子ばかりかどんな人間関係でもうまくいくはずはない、二世帯同居は早晩ぎすぎすしたものになっていくのは目に見えている。

親が子供を甘やかす。あるいは甘い期待を抱く。

最近はこの方が多いのかもしれない。しかし、この方が生物学的には問題が大きいのかも知れない。子供が親に甘えるのは成長過程において必要なことだし当り前のことだ。そこから脱皮し大人になっていくのが成長のプロセスのひとつなのだから。

成人した子供は、これから何十年に亘って人生の荒波にもまれていく。子供には子供の人生があるのだ。親のことなど日常では忘れていていいのだ。そんな大切な時期に、子供に甘い汁を与えようとしたりや甘い期待を親から子供に向けるのは、何か親として違うような気がする。二世帯住宅を建築しようという年代は、こんな時期に当たっていることが現実的に多い。

今回のシリーズは住宅屋としてはあるまじき事を書いているのかもしれない。二世帯住宅での暮らしはとても大変だとしか言っていないのだから。

しかし思いは逆だ。二世帯住宅でうまくやっていくためにはという事を、逆の表現で表していると考えて欲しい。これからもそんな感じで書き進めていくつもりだ。



 

「イマドキの二世帯住宅」第6

あきらめれば受け入れられる楽しくなる

 

あきらめれば・・投げやりな言葉に聞こえるかも知れない。

あきらめる。これは結構奥行きの深い言葉だと思っている。悪い意味でも使える。いい意味でも使える。なんとなく用語でも使える。

「そこまで深刻に考えなくてもいいんじゃない。」「適当にしたら。」「あきらめちゃいなよ。」こんな会話は良く交わされている。

いい加減といえばいい加減でもあるが、深く思えば、案外と真理もついている。いい塩梅な言葉でもある。

どんな人間関係でも突き詰めすぎれば息苦しくなってくる。そこまでする必要はないだろうし、やりすぎれば駄目になるほうほうが多い。

人の性格によるかもしれないが、日本人は生真面目な方が多い。そういう性格を前提にすれば、ちょっと息を抜けるこうした言葉は重要かもしれない。ガス抜き言葉だ。

私自身について言えば、よく頭の中で「あぁ疲れたな、もうどうでもいいや。」とつぶやいていることはままある。すべて人間関係でのことだ。当り前のことだが、こうした感情は近い人間にしか起こらない。

人はよく「あくび」をする。ご存知のように、あくびは脳に酸素を供給する行為だ。頭や神経が疲れたとき無意識的に自然にあくびが出る。よくできた生理現象である。

私の場合、「あぁ疲れたな、もうどうでもいいや。」は「あくび」のようなものだと感じている。心の酸欠状態を解消して前向きに気持ちを整いなおしてくれる。

人間とは厄介なもので、自分にとって近しい人、大切な人ほど、逆に心を痛める関係でもある。これは自分ばかりではなく、その大切な人にも生じている現象でもある。

二世帯住宅の中では、こうした現象が頻発しているだろう。すでに乗り越えた方でもこうした感情に振り回された時期はあるのだと思う。

そうした時の「魔法の言葉」が、私の場合は「もうどうでもいいや。」だ。もちろん心の中で発せられる言葉で口には出ない。この魔法はよく効く。人間関係があっという間に好転する。そのからくりは当り前のことだ。ガス抜きされたことで、自分の気持ちが前向きになり晴れやかな心持になる。そうなれば優しい言葉もでるし、相手を受け入れられる。受け入れられれば相手のいい感情も引き出される。もともと大切な人、感情が明るく前に向くのだから、すぐに楽しくなる。

相手に甘えすぎ期待しすぎると、人は不快になり気分を害する。人はわがままなものだからそんな気持ちを前面に出したら誰でも答えられるはずはない。

わかってもらえているはずだと期待しすぎた時、「もうどうでもいいや。」と魔法の言葉が心に浮かぶ。そして心は昇華される。



「イマドキの二世帯住宅」第7

どちらの親でも

 

必ずしもサザエさん一家ならばうまくいくというわけではないだろう。

血のつながった母と娘だからうまくいくだろうと安易に決め込んで二世帯住宅で暮らす、これも始める前に立ち止まってよく考えた上で決心したほうが良いと思う。

実の親子だからこそ厄介なことは多い。他人のほうが楽な面もあるというのは母娘でも当てはまる。

また誰もがマスオさんになれるわけではない。内心では嫌でたまらないが我慢しているマスオさんの方が多いのかも知れない。

人間生きている限り対人関係の悩みは尽きない。夫婦の関係、我が子との関係、親との関係。こうした三世代に亘る人間関係が一つ屋根の下で起こる、それが二世帯住宅での生活だ。

楽しい瞬間も多くあるだろうが、辛い瞬間も多いはずだ。良い時悪い時、楽しい時苦しい時のどちらの波の高さも大きくなるのだろう。

人の心は常に波風が立っているが、二世帯住宅ではその高低差が大きくなるし、強風がまかり間違うと常に吹いているという環境になってしまう事も少なからずある。

 

同時に二世帯住宅での暮らしの良い面もたくさんある。

人生の波風は家族間だけのものではない。普通は家族という内海よりも世間という外海で立つ波風の方がはるかに激しく大きいはずだ。

その防波堤になるのも家族だ。身内という名の強き味方だ。その味方の数が多いのも二世帯住宅だ。

当たり前のことだが良い面と悪い面は、どんな物でもどんな事でも常に同居している。良いことばかりはないし悪いことばかりもない。

二世帯住宅の暮らしと言っても、見かけは似通っていても家族によって中身は大きく異なる面も当然ある。

自分たち家族のメンバーやその性格などを良く見つめて、事前にシミュレーションしてみるのも一手であろう。二世帯の生活が予測しきれるとは思えないが、何も考えないで始めるよりははるかにいい結果をもたらすだろう。

案ずるより産むが安しということも多い。必要があれば踏み切ることが肝心だろう。気持ちがあれば想像以上にうまくいくものだ。

そして家族への思いやりは誰にでもある。そのお互いの思いやりと共に、理解しようとする気持ちを忘れなければ、二世帯住宅の暮らしも楽しい面が増えていくのだろうと思える。

人間関係の普通の努力を家族間でも続けることが肝心なのだと思う。



「イマドキの二世帯住宅」第8

甘えるとぼける

 

甘え方も難しい。上手に甘えると人間関係は円満になる場合もあるが、依存する、まかせっきりにするという甘え方ではうまくいかなくなるケースが多いだろう。

二世帯住宅での甘え方もいろいろであろう。上手に甘えることができれば潤滑油になるだろうし、下手な甘えであれば火に油を注ぐことにもなる。

二世帯住宅を新築する場合、多くのケースは、親の土地に建てるという例が多い。土地を親が提供し、建築費用を子供が負担する。もちろん建築費用は双方がという事例も少なくはない。

住居がなければ二世帯での暮らしは始まらないので、建てるまでは双方納得の上であり、この段階でもめるケースは例外だろう。

考えなければいけないのは、暮らしが始まってからの事だ。何事も普通になってから、日常に落とし込まれてからの方が問題は多くなる。しかも、しっかりと意識される問題というよりは、無意識的に発生してしまう潜在化している何かに気を付けなくてはいけない。

その気を付けなければいけない事の一つは、「お互いの利便性を考えた助け合い」ときれいに名前を付けられた「甘え」に潜んでいそうだ。

二世帯住宅の暮らしの多くは双方の助け合い、それは金銭的な場合も、人力的な場合もあるが、ともに手を携えあうということが前提にある。事前にしっかりと話し合われているケースもあるし、暗黙の了解的な流れに任している場合もある。

これ自体はとてもいいことだし必要なことであろう。

この必要であり素晴らしい行為の中に潜んでいる甘えが、表面に顔を出してくると雲行きは怪しくなってくる。

福祉関係では「自立と尊厳」という言葉をよく耳にするが、二世帯住宅においても基本的精神は同じであろう。どちらかがまかせっきり依存しっぱなし、あるいは、双方が単に便利使いするだけであれば早晩その関係は悪化する危険性が高い。

お互いの生活を尊重しあい、その生活が少しでも楽しく楽に成り立つように、双方ができることをしあう、見かけ上の形は一緒でも、心の底に流れる気持ちがどうであるかが問われているのだと思う。

人は誰しも自分で自分のことをしなくなったり考えなくなったりすると頭の回転が鈍ってくる。その第一歩が甘えという名の依存に潜んでいる。

大切な家族あるいは自分自身の人生をしっかりと全うさせるためにも、お互いの思いやりと自立した心をしっかりと持ち続ける必要があるだろう。そのためには時には厳しさも必要になる。その厳しさは愛に裏打ちされている。



 

「イマドキの二世帯住宅」第9

個人の感覚がなくなるようでは

 

社会の一員、家族の一員。この言葉で想起されるイメージは人それぞれであろうが、人は一人で生きているわけではないので、それぞれ連想されるイメージはとうぜん意味のある事であろう。

ここでは家族の一員という言葉に秘められた意味を考えてみたい。

家族の一人としての責任と義務みたいな堅苦しい感覚にもなりがちな雰囲気を持つ言葉だが、ここでは少し斜めから見てみよう。家族の一員という言葉から、「家族の中に埋没する」そんなイメージが湧いてくる。人は家族であると同時に一人の人間だ。

一人ひとりの個性も違うし得意なことも異なっているのが普通だ。その個性や能力を育み伸ばしていく土壌が家族だろう。

だからと言って親や兄弟姉妹がこうあるべきだなんてことは言う気はない。人間の生活に教条主義的なことはいらないと思っている。

これは個人の感覚の問題なのだと思う。

家族の中にあっても人の気持ちは日々揺れ動く。それぞれが家族生活以外の社会生活を送っている。当然それぞれの毎日は、楽しかったり苦しかったり悲しかったり、自信にあふれていたり落ち込んでいたり、イライラしていたり人に当たりたくなったり優しい思いに溢れていたりと、実に目まぐるしく変化していることも稀ではない。その原因が家族生活の場合もあればそれ以外の社会生活による場合もある。

そうした感情を持つ複数の人間が身内として一つ屋根の下に生活を共にしている、それが家族だ。また一つ屋根の下を離れても家族であることに変わりはない。

家族の一員。

この当たり前の響きを持つ言葉は考えようによっては、とても重くなる。

普通の寿命を全うすれば、人生にはいろいろな局面がある。時間の経過とともにそれぞれ家族の一員の役割も大きく変化する。

家族を無視している時期もあれば、家族に振りまわされてしまう時期もある。

どうであれ何らかの形で例えそれが心の中という形でも、人死ぬまで家族という大きな何者から逃れることはできない。

そうであればより素直な気持ちで家族に接することができればいいのだろうと感じる。人がそんな気持ちになれるのはある程度の年月が必要なのだろうが、家族の中の一人、家族意識と個人意識、この感覚バランスはむずかしい。

なんだか書いていてもバラバラ感があるし、読み返しても何を言いたいのか、まとまりのない内容だ。

家族と個人、私には扱いきれないテーマだ。気楽にいこう。



「イマドキの二世帯住宅」第10

決別もある

 

別れは辛いもので避けたいものだが、人間関係は別れてうまくいくこともある。

二世帯住宅での暮らしではうまくいかなかったものが、世帯を別にしてうまくいく事は不思議なことではない。「別れて」という言葉を「離れて」という言葉に置き換えれば、より分かりやすいかも知れない。「別れて暮らす」と「離れて暮らす」では言葉の雰囲気や強弱が違いそうだ。

距離を置くということはマイナス面よりもプラスに働くことが多そうだ。どうにもならない時は別れになるだろうがその前に距離を置くということで解決されることは少なくない。

人間は誰しも必ず別れが来る。死という現実からは逃れることはできない。

だから後悔しないように「思いっきり生きよう」とは良く言われることだが、二世帯住宅の暮らしで「思いっきり」と言われても困惑される方も多いであろう。

ストレスをため込んで自分にも相手にも悪い影響を与える、そこから抜け切れずにもっとひどい状況になってしまう。二世帯住宅での暮らしは、ややもすると、そんな悪循環に陥ることも少なくはない。

二世帯住宅であろうがなかろうが、暮らしは日常の時間の流れの中にある。普通は淡々と流れ、時にうれしかったり悲しかったり怒ったりイライラしたり落ち込んだりと波風が立つ。そんな繰り返しが日常生活だ。

日常生活が充実していればそれは最高の人生と言えるだろう。なぜならばそれは結構難しいことだから。ある瞬間ある時間は満たされていても、それが死ぬまで継続することは極めて困難なことであろう。

家族という存在も同じだ。家族がいるからこそ充実することも事実だが、家族という存在が重くのしかかりめげそうになることも少なくはない。それは親の立場でも子供の立場でも変わらないであろう。

普通はそんなことを考えたり感じたりしないで流れていくのが日常生活だが、時折、何かの拍子で、ふっと真剣さを飛び越え深刻な気持ちに陥ってしまうこともある。

二世帯住宅は、親子という軋轢も毎日の暮らしの中に身近に存在しているので、時に厄介なことにもなる。お互いに気持ちの整理がつけば、そうしたことは乗り越えて何事もなかった如く、日常が進んでいくが、二世帯住宅のようにお互いがあまりに身近に存在していると、それがなかなかできないで泥沼にはまってしまう恐れもある。

こんな時こそ「思い切って」、離れて暮らすという選択が生きるかもしれない。別れは後向きの選択ではなく前向きの歩みであることも多い。

二世帯住宅もつくり方そして暮らし方のルールで「つかず離れず」の距離感がとても重要なのだろう。上手な別れの演出も必要なのかも知れない。



「イマドキの二世帯住宅」第11

ここまでくれば悪くも無い

 

「ここまでくれば」この言葉も奥が深そうだ。

ここでのテーマは二世帯住宅、従って、ちゃんと題を表現すれば「ここまでくれば二世帯住宅での暮らしは悪くも無い」となる。

「ここまでくれば」で連想されるイメージは、長い時間、長い距離、深い思い、永い努力、めちゃめちゃ、最悪、極端、最高、あきらめ、諦念、諦観、そして過去という感じか。

一方「どこまで行けば」という言葉もある。この言葉は、先の長く辛い時間や距離を連想される。未来形だ。

人生は、長いような短いような、楽しいような苦しいような、良いような悪いような、わかるようなわからいような、まあ、いろいろな模様か。

所詮は生きている理由も生かされている理由も本当の所は分かりはしない。そうであれば苦しいよりは楽しい方がいいに決まっている。

「ここまでくれば」大丈夫。「ここまで来たんだから」もうひと踏ん張り。と自分の置かれた立場をとらえられれば、楽しい気分にもなる。もちろんその置かれている状況は一人ひとり皆異なるだろうが、要は具体的立場や状況の問題ではなく、自分の心の持ち様や考え方で随分と違ってくることがほとんどだろう。

自分の心の持ち様が前向きになれば明るい気持ちになってくる。そしてこの気持ちは周りに伝播する。自分がその前向きの気持ちを持ち続ける努力をさりげなくし続けられれば、自分の周囲の人の気持ちも前向きに変わってくる。

そうなればしめたもの。

前向きの刺激のし合い、良い循環がスタートする。後はそれぞれがこの良い循環を壊さないように少しだけ気を付ければいいだけだ。

しかし、結構難しい面も当然ある。

多くの場合一番の問題は、相手に期待してしまうことだ。相手が前向きになって優しい態度や言葉になってくれれば自分もなれるのに、何でどうしてそうしてくれないのだと相手を責めてしまう自分がいる。責め言葉は、口に出される時も心の中だけの場合もあるが、これでは良い循環にはなれない。

相手の心の問題ではなく自分の心の問題なのだから。

どんなジャンルでも人生で成功されていると言われている人は、自分から行動を起こしている。その姿勢は仕事の場面ばかりではなく、個人の生活でも同じことだ。

しかし、仕事では普通にできる心の姿勢が、個人生活ではなかなか出来ない方が多い。身内の責め言葉は愛情に裏打ちされている事が多い。そうとらえてまずは自分から優しい受け入れられる心を持ちたいものだ。と憧れる。



「イマドキの二世帯住宅」第12

一人で生きるという感覚も

 

「一人で生きるという感覚も」が今回のテーマだがどうしてこんな題名を思いついたのか覚えていない。この原稿は13回シリーズと決め最初に13回分の題名を付けた。従って随分と前になるので当時どのように考えて付けたのかは既に忘れ果てている。まぁ何か思いがあったはずなので、このテーマで書き進めてみたい。

家族という中にたっぷりとつかって生活していると、どうしてもなれ合いになりルーズになってしまうだろう。そこに甘えや依存心も良いにつけ悪いにつけ発生してしまう。

順調に流れている時はそれでも問題はないのだろうが、人生は色々な局面がある。そんな時に過度な期待や甘えがあると、それがつまずきの石になりかねない。

二世帯住宅での暮らしは元来微妙な要素を含んでいる。世代を重ねた親子関係が一つ屋根の下に暮らしているのだからそれは当然のことだ。

大人であれば普段は上手にオブラートに包んで何事もないかの如く暮らしているのが普通の姿であろうが、それは一方でストレスをため込んでいる事にもなる。小さなつまずきがいくつか続くと意外と簡単にオブラートは破れストレスが表にあふれ出てしまうかもしれない。

人は生まれてくる時と死ぬ時は他の人の手を煩わしてしまう。そうであればそうだからこそ、一人前に生きていられる時は自分自身の足でしっかりと立って生きる、そんな感覚が家族の中でも必要なことなのだと思う。

多くの人は仕事など社会生活の中では、そうして生きている方がほとんどであろう。そういう方でも家族の中では違う面が出てしまうことが多い。

仕事とか会社とかの人間関係と家族の人間関係は当然違う。とてもプライベートで親密な家族という人間関係を生きるのに、ほんの少しだけでも仕事での心構えを応用すれば意外とうまくいくかもしれないと考えてみたらどうだろうか。

そんな水臭いことはできないと思うかもしれないが、言葉を換えれば、いい意味で他の人の立場を理解するとか思いやる、普段仕事でしているちょっとした気づかいを家族という人間関係でも働かせるということ。

人間関係は血が濃くなるほど関係が濃くなるほど難しい面もあるといつも感じている、それだけに、今申し述べていることが実際にすいすいとできるとは思っていない。本音で言えばできるはずがないとの思いの方が多いかもしれない。

それだからこそ、できなくても仕方ないから、それでも、少しでも後ろに引いて見る考えてみるという仕事感覚的な心の要素が必要だと思うことができれば、自分の心に余裕がでるだろう。

自分の心のゆとり余裕が、家族関係を望んでいる姿に保ってくれると信じたい。



「イマドキの二世帯住宅」第13

たまに会う感じで

 

今回が「イマドキの二世帯住宅」13回シリーズでスタートした13回目。その最終章は「たまに会う感じで」だ。これもいろいろな意味にとれてしまう。

「一つ屋根の下に暮らしているけれど必要な時以外は顔を合わさないで暮らせる家の工夫」とか「毎日顔を合わしているのだけれどたまに会うような感じで暮らせる工夫」とか結構幅の広い中身になりそうだ。

あまり難しく考えないで思いつくままに章を閉めたいと思う。

物理的感覚であれ心理的感覚であれ、結局は「つかず離れず」の距離感なのだろう。あまりにも当たり前の極意と思うができそうで中々できないのも事実だ。だからこそ極意なのだろう。

最も良いのは、共に暮らす人間がこうした心構えを共有できればいいのだろうが、それはできるとは思えない。そうした心を保つことができれば住宅の間取りや性能などどうでもいいことなのだとは思うが、現実的に心の持ち様だけに押し付けるのはあまりにも非現実的なことだ。

それではそうした心映えを少しでも手助けできる家、そんな家が可能か模索してみたい。

よほどの達人でなければ人間の心は身体の状態に左右されがちだ。健全な身体に健全な精神は宿る、と小学生で習ったようなことはまさしく本当のことだと思う。

であれば、健康な身体づくりに役立つ家、そんな健康住宅はやはり必要なことだ。

そして、具体的な二世帯住宅の生活の中で「つかず離れず」の距離を保てるのは、間取りの技術といえる。それは二世帯住宅に関わらずすべての家づくりに必要なこと。

1983年に「健康住宅宣言」をした。イメージ言葉ではなく具体的な家づくりの技術として世の中に打ち出した瞬間だ。「健=人+建」を具体的な健康住宅をつくりあげる具体的な内容として同時に提案をした。

健康住宅は、住む人の健康と建物そのものの健康を同時に実現する技術である。具体的にはパッシブエアサイクル工法略して「PAC工法」で建築し、間取りは「広がり空間」でする、というものだ。

もちろん構築する材料は、国産無垢の木材、安全な自然素材・建材であることは当然のことであろう。具体的内容をここで語るのはスペースが足らなすぎる。また二世帯住宅をシリーズとして語ってきたが、家族が共に暮らすという意味では、単世帯であろうが多世帯であろうが、原則は同じだ。そして同時に、それぞれの家族はやはり個性豊かだ。

その個性をのびのびと生かしながら、こうした健康住宅は建築することを始めて、すでに40年が経過しようとしている。

歩みは遅いが着々とその思いと具体的な家づくりが今も続いていることに感謝したい。