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こころの窓を開いたら、夫婦は別室


「夫婦別室にしてたら、僕ら離婚しないですんでいたかも知れない」
すでに離婚してン十年になるであろう彼がポッンと言った。


ちょうど本書の原稿に取りかかる準備をしていた矢先のこと。話題も自然と本のこととなり、「これからの家づくり、夫婦別室ということも設計段階で提案する必要あるんじゃないかしら」「家庭内離婚の状態で一つの寝室で生活しているのって不自然」、など数人でわいわいやっている時のことだった。

考えてみればこれまで夫婦の関係が破綻した時は、別居か離婚だった。もしくは昨今多く見られる家庭内離婚。夫婦別室は、新しい夫婦のかたちとして、選択肢の一つになり得るのではないだろうか。

すでに寝室を別々にしている夫婦、そして潜在的に夫婦別室を希望している夫婦。その理由のほとんどは、ゆっくり眠りたい、眠りにつくまでの貴重な時間をそれぞれ好きなことをして、思うままに過ごしたい、ということのようである。。

夫の鼾や生活時間帯のずれで眠れないというその状態が深刻な場合は、話し合って夫婦が寝室を別室にすることは自然のかたちだと思う。

小さい頃から身についている習慣、横になってから本を読む、音楽を聞く、テレビを見る、真っ暗にしないと眠れない、反対に暗いと眠れない、ベッドがいい、布団がいい……。お互い相手に合わせたくないと自分の習慣に固執したら、二人の生活は始まっていない。もちろん食生活だってずいぶんと違ったはず。

新婚当初は自然に受け入れられていたことに不自由さがともなってきたり、疑問を感じるようになるのは何なのだろう。

年を追うごとに会話の少なくなる夫婦。長年生活していればお互いいちいち言葉にしなくても、といった思いが意外と落とし穴になっているのかも知れない。

考えてみれば一つの家族として一緒に暮らすことが当たり前になってしまって、ありがとうとか、悪かったといった気持ちを素直に言葉にするのを忘れてしまっているのではないだろうか。

今、夫婦とは何なのかを考えさせられる動きが、夫婦別姓の是非論の中で問われている。夫婦別姓は大きく夫婦のあり方を変えようとしている。反対の声には、そうした形態が夫と妻の本質的変容につながるのではないかとの危険性を訴えている。

確かに夫婦別姓は、これまでみなしていた夫婦という定義を、大きく崩すことになる。結婚して名前が変わることで一体感を得ていた夫婦は、より本質的なところでの結びつき、そして伴に生活するという強い意識が必要になってくるだろう。

しかしながら夫婦の関係が、氏の呼び名が変わったからといって、こころの結びつきまで変わってよいものだろうか。

夫婦に限らず、人間関係の基本は伴に成長することにあると思う。仕事を通じ、あるいは家庭を守りながら、お互い日々成長している。その成長を見守る、あるいは刺激し合って生きていくためにはお互い相手を見つめていなければならないと思う。

関心を持たれる、見つめられることで人間は自分の存在が確認できる。家庭という共通の生活の場にあって、夫が家事や日常生活のちょっとした変化に目を向けることは、妻に関心を持つことと同じことだと思う。

毎日つくる食事に夫が関心を示せば、創意工夫のしがいもあるというもの。室内に飾られた花に、絵に、器に、そして妻が髪型を変えた、何か新しい物を身につけている、こうした一つひとつのことにひどく鈍感になってはいないだろうか。

夫婦別室を希望する声が妻からのケースが多いというのも領ける。夫からもっと自由になって、一人の個としての目分を取り戻したいと思う気持ちの中には、自分自身でつくっている自分への規制、枠組から開放されたいということであるかも知れない。

家事は家事労働といわれるように、まともにやったらかなりの肉体と精神力がともなう。しかも毎日同じことの繰り返し。まさに砂上の楼閣、疲れている時など虚しい気持ちにさせられることがしばしばある。こんな時、夫の思いやりの一言がどれほど意味を持つか。

夫が家の中のことに鈍感な反応しか示さなければ、内面的にはもっと関心が薄らいでいるだろうと受け取られても仕方ない。自分も夫に向けていた気持ちを少し自分・目身に向けてみよう、自分を大切に生きてみようということが、夫婦別室をという気持ちにつながってはいないだろうか。

外が静けさを取り戻す時間帯に、ようやく慌ただしい一日の家事から開放される。そのほっとしたひとときをのんびりしたいと思うのは誰にでもあると思う。

夫婦別室が、二人にとって新鮮な気持ちで向き合えるためのプロセスであるなら大賛成だ。
単に逃避になってしまうのであれば意味がない。現実から目をそらすだけでは何も変わらない。
現実の悲しみやつらさ、それを人に転嫁したり、自分を責めたり、頭であれこれ考えあぐんだりしないで、素直に受け入れる。

現実を見つめることは、自分自身を見つめることになる。そしてそこに感情を入れなければ、こだわりや束縛と思っていたものの実体が見えてくる。自分自身のこころが開放されると、人を受け入れるゆとりが出てくる。自分のことで気持ちがいっぱいの時、こころは閉ざされた状態なのだと思う。

開放されたこころで生活を見つめてみたら、目の前の一つひとつのことが決して同じことの繰り返しであったり、長年連れ添って生きてきた伴侶が色槌せて見えることはないと思う。
こころを開放するための夫婦別室。

「今日から寝室別々にしてみませんか?」

思い切って提案してみたらどうだろう。・

そこから新しい夫婦のかたち、新しい暮らしのかたちが見えてくるかも知れない。

1997年7月
若林礼子 2008年9月に故人となりました。
「夫婦の生活実感でつくる家」のまえがきです。

それぞれの個性を生かして生きる夫婦