プラス思考の健康住宅づくり まえがき 二つの死から

まえがきにかえて  二つの死から 

私の祖母は九二歳で他界した。最期まで意識も身体もしっかりしていた。深い眠りにつく一週間前、おすしをつくって祖母に届けた。ちょっぴり干瓢が辛かったのに、自分のつくるのと同じ味だ、美味しいといってくれた。その日、私が帰ろうとすると、いきなり正座をして「礼ちゃんいろいろお世話になったわね、ありがとう。私はもう長くないわ」といった。それが祖母を見る最後になってしまった。 

二、三日後、姉が子どもを連れて遊びにきていて、生まれたばかりのひ孫をうれしそうに膝の上に乗せていたそうだ。祖母が亡くなった日、私は仕事で青森にいた。帰ってきた時には葬儀も終わり、祖母はお線香の香りと、部屋いっぱいの菊の中でひっそりとかたちを変えて眠っていた。気丈だった祖母.祖母の枕下には分骨をして欲しいとの手紙が添えられて髪の毛が和紙に包まれて残されていたそうだ。 

眠るように逝ってしまった祖母が最期に水を呑もうとしたのだろう。口元まで運べず、傍にはコップが倒れていたそうだ。母は最期に水を呑ませてやりたかったと随分悔やんでいた。 

祖母の部屋とはふすま一枚を隔てて私たち姉妹の寝室があった。学生時代、遅くまで勉強していると、おそらく明りが漏れるのだろう。「まだ起きてるの、身体に毒よ」とよく声を掛けてきた。 

祖母が明け方咳をしていると「おばあちゃん夕べ苦しそうだったけど大丈夫かな」と、姉妹の誰ともなしに母にその様子を伝えていた。 

最期まで頑として火鉢で生活していた祖母。90歳を過ぎても、記憶も衰えることなく、雑誌を読んだり、縫い物をしていた。死の準備をし、眠るように自宅で亡くなった祖母。私にとってはじめての家族の死だった。そして人はみな、こんなふうに安らかに死を迎えるのだろうと、本当にその時は思っていた。 

三年後、父を失った。父69歳、私が33の時だった。亡くなる一年程前、血尿が出た。その時、父は癌かもしれないという疑いが不思議なほど私の中には芽生えなかった。今考えれば無知だった。一度目の手術の後、医者に詰め寄った私に、すでに末期症状であることが告げられた。約ひと月の間、私一人の胸の中におさめていた悲しい事実。このひと月は私にとってどれほどの言葉を使っても語りきれない程の自問自答を繰り返していた。 

最期まで誰からも父に病名は告げられなかった。しかし父はちゃんとわかっていて、それでも誰もが癌といわないことで一模の望みは持っていたようだ。父は気丈というよりは、病気と戦い勝てると信じていたから、痛みも手術もすべて受け入れ、元気になれる日を楽しみにしていた感があった。すでに断ち切られた希望を夢に、痛みに耐えている父を見ることはとても辛かった。 

いささかの治療の甲斐もなく、痛みが消えない日々がつづくようになって、何度か医者に一体どうして痛みが消えないのかと抗議したそうだ。患者が病名を知らないと治療への理解が薄いといわれる。それは事実だと思うし、告知をすべきか否かが問われる所以だと思う。 

しかしながら患者に病名を知らせる知らせない以前の配慮のなさを、癌病棟における日常性の中で感じた。それはたまたま父が入院した大学病院の、そして担当医師の問題だったのかもしれないが、告知など必要ないほどに、患者に病名を認識させるには十分な空気が癌病棟には漂っていた。 

一度だけだったけれど、点滴装置と、輸血のチューブを自分ではずしてしまった。すでに言葉が思うようにならなくなってのことだった。父の無言の抵抗によって得られたものは、さらに手の自由までが奪われることだった。最期まで意識だけがしっかりしていたのが、よけいに辛かった。病院から自宅までは車でも一時間以上かかった。いつも時間を気にして、早く帰れ、気をつけて帰れといっていた。話ができなくなってからは時計をしている方の手を上げて示唆をする、でももう力尽きた父の肉体は意識とともに手を動かすことすらできなくなっていた。 

薬が切れると痛みが走る、その断続的にくる痛みをおさえて欲しいという期待は叶えてもらえなかった。もっと強い薬を使うということは死を早めることであり、延命を第一義とする医者にはできないことだったのだろう。 

私が駆けつけた時すでに父は息を引きとっていた。わずか一週間の間に別人のように痩せ衰えた父の姿があった。そして、当然のことのように、一秒でも長く生かそうとのあらゆる措置がなされた、まるで戦場のような様がその医療装置の騒然さの中に読み取れた。

父は最期まで生を放棄しなかったけれど、おそらくどこかの時点で、もう楽になりたいという意識が、生きようという意識に勝っていたのではなかったかと思う。 

対照的な二つの死が残してくれたものは、はかり知れないほど重い。おそらくこのころから、徐々に芽生え始めた現代医療への不信。ターミナルケァ、ホスピスのこれから。そして父の身体を癌に追いやった原因をあらゆる視点で検討することが無意識の中で行われ始めた。祖母の時代から、母の代となって住環境は何か変わっただろうか、食生活の内容はどうだったか、父の仕事や趣味の生活の中にもその要因をさぐっている自分があった。 

それはとりもなおさず、私の仕事と無縁ではなかった。健康な家づくりということから始まり、もっと幅広く健康という課題に目を広げている時期だったこともあり、私の中で顕在化しつつあるさまざまの問題意識との接点ができた訳である。 

健康ということを考えれば、必然的に死の問題が対岸にある。いかに死の瞬間まで健康に生きるかということは、二つの死を通して、私の中の大きなテーマになっていた。 

そして癌という病気の要因をさぐる中で、住環境、食生活、精神面でのケアといったトータルな健康の必要性に気づくことができた。 

今回、一冊の本にまとめてみては、とのお話をいただいた時、正直とまどった.そんなふうに文章を書いたことはない。だからテーマを決めはしたものの、書きすすめるうちにだいぶかけ離れてしまったところもある。ただこの仕事を始めて一四年、健康ということでいろいろ感じていることをいったん整理するのには良い機会をいただけたと思う。 

健康な家をどうつくるかという建物の建て方、工法の開発ということから始まった私の仕事も、建築家。吉田桂一一先生との出合いで、デザインはいうに及ばず、健康という視点から間取りを見る目をやしなわせていただくことができた。 

環境工学の先生方、東洋大学の土屋喬雄先生、熊本大学の石原修先生、九州大学の林徹夫先生のご指導により、住宅の機能、性能が高められ、そして今後ますます、質の向上へ向けてご尽力をいただいている。 

今回の本文の中で取り上げているアレルギー、農薬の問題に関しては、群馬県の前橋市で開業医をされている青山美子先生、そして横浜国立大学環境科学センターで教授をされている加藤龍夫先生の教えに負う所が大きい。本書書面を借りてみなさまに感謝申し上げたい。 

そして私たちの開発した健康住宅を実際に建築し、真剣に生きている仲間の会員のかたがたとともに、毎日楽しく仕事をさせていただいている。 

冒頭でいきなり死に触れることに、いささか祷踏もし、これで良かったのかなと思ったりもしているが、死を真剣に考えるところから、一瞬一瞬の生を見つめていくことは重要だと思い、敢えて書かせていただいた。ご勘弁いただきたい。 

健康の実現には、こころのありようまでを含めたトータルな要素が必要だということ、そして、20世紀と21世紀のはざまに生きる私たち一人ひとりがその本質を追及する目を持たなければ、地球そのものが不健康な星になってしまうということをあらためて気づいていただきたかった。

素晴らしい表紙の絵を書いてくださったデザイナーの練子庚導様、内容をより理解していただけるようにとたくさんのイラストを書いてくださった新免敦子様、本当にありがとう。 

そして最後に、編集にあたり、ご協力くださった津本裕子様にこころから感謝の辞をささげたい。 

平成6年6月10日

若林礼子 (2008年9月故人となりました。)